アコ―スティックギターの魅力
何を隠そう、アコギ演奏が筆者の趣味の一つだ。
無論、音楽が好きで聞くのも好きだが、弾くのも好き。
そしてなぜエレキではないのか?というと単純に、エレキとは違う生のあの音色が好き。
決してギタリストになりたいわけではなく、弾きながら歌うスタイルが好き。
もっと言うと、“歌うこと”自体が好き。
その伴奏のために弾いている。
アコギの弦というのはブロンズ(銅)が主で、必然的に初心者のうちはそれは大変な痛みを伴いながらの練習となる。
特に初心者の最初の難関と呼ばれる“バレーコード(人差し指を全フレット抑えるパターン)”なんかは特に辛い。
しかし・・・!そんな壁を乗り越えてきたギタリストさんならばまずお分かり頂けると思う。
言わずもがな、その
“痛(いた)気持ちよさ”!!
を。
指は痛いけど、それをも超越する快楽がそこには確かに存在するのだ。
ギターを弾きながら歌い、更に快楽も得られる。
もはやこの快楽を得るために弾いているといっても過言ではない(本当に)。
警察官はかっこいい
今回のテーマは、皆様にもおそらく共感して頂けると思うことを書こうと思う。自信があるのだ。
というのは、警察官。
いわゆる“お巡りさん”なのだが、
かっこいいと思うのだ。
何がかっこいいか?
無論、子供がかっこいい、将来なりたい、などと言うのとは違う。
答えは ― まるで“ヤクザ”のようであるところ。である
正義の味方ではあるがあの威圧感といい、何かヤクザと雰囲気が似ている。
ヤクザと紙一重のような気がする。
ある刑事ドラマの中でも、そのように言っていた場面があったのを思い出した。
また、ある日のニュースでは警察官が暴力団の事務所に押し入るシーンが流れ、そこでは“警察官”が「出てこいオラぁぁぁ!!」と叫んでいたのだ・・・
もはやどちらが暴力団なんだかわからない。
ヤクザのようでヤクザではない。
制服を着た、世の中を守る“ヤクザ”だ。
普段の何気ない光景の中でもこんなことを感じる事が出来て私筆者は、大変に幸せである。
皆様はいかがだろうか?
北野先生から学んだこと
皆様、“熱中時代”という学園ドラマをご存知だろうか?
時は1980年(昭和55年)、今や刑事ドラマ“相棒”でお馴染みの水谷豊さんが主演の学園ドラマで、
世代としては今の40代~50代くらいの方がちょうど同じ小学生だった頃の話である。
その水谷さんが“北野広大”という教師役で、これがまたその“キャラクター”がこのドラマの見どころの一つだ。
出身地が北海道という設定で、独特な訛りの北海道弁が実に愉快で強烈なインパクトを与えるのだ。
実際に水谷さんも、北海道の芦別市の出身で(小学校低学年頃に東京に移り住むが)あるが、かくいう私筆者も・・・北海道出身。
さらに当時全国的にも高視聴率だった、とのこと(なんと最高視聴率46.7%!)。
と、まぁこんなような内容のドラマだったもんで、当然筆者も愛着が沸かない訳がないわけで・・・
長くなったが、今回はこのドラマについて感じたことを書きたいのだが、敢えて簡潔に一言で表させて頂く。
“主人公の出身地が同じでこんなにも完成度の高いドラマが、40年前に存在していたとは・・”
である。
何というか、生きているとこんなような“小さな幸せ”に出会うことが少なからずあるようだ。
今回はこれにて筆を置かせて頂く。
正体不明のノスタルジーⅡ
前回の“正体不明のノスタルジーⅡ”の続きとして、この回では書きたい。
まずは、前回、丸々筆者自身の体験談の話になってしまったことについて、深くお詫びしたい。
しかし皆様、こういった経験はあるのではないだろうか。
ある時、ふとした瞬間に印象に残っている場面が脳裏によみがえることが・・・
懐かしい・・・懐かしく思う感情というのは確かに、少なからず誰しもあると思う。
しかし!!!・・・しかしである。
考えてみるとこの一連の行為、何も得るものがない。全くの無意味。
全くの時間の無駄。そう気づくまでに大そうな時間を要した。
つまり、私筆者はロマンティストな傾向にあるらしい。
しかしそんなものは微塵も望んでいない。
全く不要なもの。
人間の脳とは得てしてそんなものだと気づいた。
私筆者は、自分にとっての“要・不要”を意識しながら、人生を歩んでいくことを、筆者は誓ったのである。
正体不明のノスタルジーⅠ
以前にもお伝えしたが、筆者は基本的に孤独である。
そのような運命らしい。
うううん、否定しているのでは全くない、孤独が好きである。孤独を愛する。
この、“孤独”という一つの空間に一つの宝物ののようなものがあるのでご紹介する。
それを“得体のしれないノスタルジー”とでも言おう。それは、ずいぶん過去から形成されているものらしくて、
―
そこに実に、何とも言い表し難い感情が・・・
懐かしさ、悲しさ、侘しさ、感動・・・
そして、熱い想いもある。
そしてこれは僕のアイデアなんだが、僕の生まれた土地にも関連しているものではないかと思う。
その故郷というのは、北海道。
日本最北端にある、広大な土地だ。
歴史が浅く、開拓が行われてから200年にも満たない。
何か、日本ぽさがあまりなく、
決して昔話の舞台になるようなところでなく、どちらかというと北欧のような、遠い外国のようなところ。それも理由の一つなのだろうか。
田舎というか、だだっ広い原野という感じだ。
話がずれたが、“ノスタルジー”。
明確にこういうものだよ、と表現しづらいものである。だが敢えて感じたままの言葉で言わせてもらうと、
夕日が辺り一面に照らされていている。そこは実家の裏、畑。
母親がいる。麦わら帽子を被っている。そして近くには今は亡き祖母もいる。そして畑には、“グズベリー”が実っている。
これはそのまま採って食べることもができる食物で、元々は北ヨーロッパで実る果物として有名で日本でも北海道地方にしか実らない
ものらしい。
そしてその夕日と、母親の愛に自分は引きずり込まれいくようなのだ。が、同時に怖さもあるのだ。
どうしたものか。一瞬考えるが、ここは自然の流れに身を任せた方がよさそうである。
するとすると・・どこかの原野にワープしている・・・・・
ううむ、まるで物語のようだ。
“北海道”。改めて考えてみると何だか変わったところだ。
結局、筆者はこの土地が好きなのだろう。
本当に何か、得体の知れないノスタルジーな土地だと感じる。
日本で唯一無二の場所ではなかろうか。
“孤独”の先にあるもの
全く突然で申し訳ないが皆さん、“孤独”と聞いて何を思うだろう。
例えば、孤独=辛い、苦しい、地獄に突き落とされたような感じ・・・
やはりこういったイメージが多いことと思う。
しかし、結論から申すと、孤独の先にあるもの・・・それは、“快楽ドーパミン”なのである。
のっけから意味がわからないだろうが、筆者の場合はそうだ。
詳細を今から説明させて頂く。
発端は、基本的に筆者は幼少期より孤独であるということ。
口下手という訳ではないが、何かバリア張ってしまっているようなのだ。
学生時代から成人へ、そして現在まで変わらず孤独であり、
当初はやはり、それはそれは凄まじい苦しみであった。
しかし時が経つにつれ、ある時気づいたのだ。
― むしろ徹底的に孤独に浸ると、快楽になる ―
と。
まるで悟りを開いたかのようだ。
そう、必ずしも“苦しみ”は苦しいものではなかった。
これは強力なメリットだ。
勿論、人との交流も大切なのは言うまでもないが、筆者にはそれ以上に根本には“孤独”がある。
“自分は孤独だ”と思っている人へ ―
どうか今一度感じてみてほしい―
― 孤独は素晴らしいものである ―
と筆者は断言致す。
そんな人間も、ここに確かに、いる。
サイクリングの魅力
突然だが、私の趣味が“サイクリング”である。
サイクリング。
“自転車を漕ぐ”という行為自体が大変という人もいらっしゃるかもしれないが、
しかし都内に住んでいると、自転車ほど最も合理的な移動手段はないように思うのだ(あくまでも私の個人の意見であるが)
例えお金持ちで車を持てる余裕があっても、自分は車は買わないと思う。
車移動だとまず、国道や街道といった大きい道路はほぼ混雑しがちだし、何より駐車料などの維持費もかかる。
そしてさらに、運転に結構な気を使う。
車の運転が好きな人には楽かもしれないが、なんというか、せっかく外を移動するので室内(車内?)★
あとはバイク。
これまた私見で大変申し訳ないが、バイクに縁遠い人間にとっては本当にバイクの良さにピンとこない。
それに、何だかエンジンの音がうるさくて・・・(バイクに乗らない人間にとってはこういった意見が・・・ライダーの皆様、申し訳ない)
自転車は音はしないし、外気を直接感じながら走るというのは実に心地よいものである。
さらに運動にもなる、という利点もある。
自転車には他の乗り物にはない魅力があるのだが。
“たかが自転車、されど自転車”である。
サイクリングを愛する皆様、この言葉、共感して頂けた事と思う。